水が教へてくれる

ネット で 「水 国語辞典」 などと調べると
「水」の意味などが載ってゐる
例へば goo辞書の 「意味」のところに 見出しとして

みず [みづ]

と書かれてゐる

小學校では いまだに 水の讀みを 「みず」と教へてゐる
では 「みづ」 と讀んだとき それは間違ひなのだらうか

いはゆる 「歴史的仮名使い」で書かれた文章は
日本語として 間違ひ とは言へない

けれども 「日常的」には使はれないので
さういふ文章で書かれたブログは 多くの人に 良い印象を與へない

なぜだらう?

そもそも 「歴史的仮名使ひ」で「わざわざ」ブログを書く人といふのは
どんな価値観 世界観を持ってゐるのだらうか

なぜ 昔は 「みづ」 と讀んで 今は 「みず」と讀むのだらう

なんで 昔は 「讀」 と書いてゐたのに 今は 「読」と書くのだらう

ただ 時代が變はって 「自然」に 価値観が 變はったから?

それとも 別の原因があるのかな?

ここには 「洗脳」と 「學び」との大きな違ひが 潜んでゐる

あなたが もし

「學校で習ふ知識が 正しい知識」

と信じ續け
學校で教はってゐない 學校で習ったものと違ふことを言ったりする人を
あまり關はりたくない おかしな人と 決めつけた場合

あなたは どこかのカルト宗教(これも決めつけた不適当な言ひ方ではあるが)に洗脳されてゐる人と
何も違はない

「何が正しいんだらう」

「どうして正しいんだらう」

と 常に問ひ續けること

これが 「洗脳」を抜け 「學び」を 「つくりだす」 意識のはたらき と私は考へる

さういふ意味で

「みづ」といふ言葉ひとつが

多くのことを 語ってくれてゐる